学びの日記 -Indirect Learning Diary-

理工系修士卒→情報系民間企業研究職→母校研究員(現在)→他校博士課程進学予定(2018年4月~)

「学ぶこと」について

 21日ぶりの更新ということで、目標より早いペースで進んでいます。有言実行とは、まさしくこのことですね。

さて、前回、「勉強とか研究とか~中心に、~まとめていこうと思います」とか書いていたので、まず手始めに今回は、「学ぶこと」について書こうと思います。

数学なんて普段使わないし、世界史の勉強なんてなんの役にもたたない。大学の授業で学んだことなんか仕事で使わないし、卒論・修論の内容なんて社会の役に立たない。このような話をよく聞きます。確かにそうですね笑。もちろん、今まで学んできたことを直接的に仕事に生かせている恵まれた方もいらっしゃるかと思いますが、少数派だと思います。大半の方は、結局今まで学んできたことを直接的に使う機会がほとんどないような職業について、仕事を覚えるために職業現場で苦労する日々を送っているかと思います。では、なぜ、職に就いてから苦労してまで、高校や大学などの教育現場で、そのような ”役に立たない” ことを我々は学んでいるのでしょうか?

 この疑問の答えとして、僕がしっくり来ている言葉があります。それは、”Head Fake ( 頭のフェイント )”です。僕がこの言葉を知ったのは、というか、おそらくこの言葉の発祥は、ランディパウッシュの「最後の授業」です。(参考:https://www.youtube.com/watch?v=jyyzWRp_VpM)「最後の授業」自体は、すい臓がんを患ったランディが行った最終講義であり、彼の人生から得られた生き方についての約75分の講義であり、下手な映画を見るよりも面白いので、ぜひ見ていただきたいのですが、その中で使用された”Head Fake ( 頭のフェイント )”という言葉がとても印象に残っています。この講義の中で、”Head Fake ( 頭のフェイント )”という言葉は、彼が幼少期に習っていたフットボールから学んだこと(動画8分あたりからの話)の要約の中で以下(和訳)のように使われています。

 

「実は子供たちにスポーツを習わせるということは、”頭のフェイント”なのです。スポーツを習えば技術やルールなど多くのことが身につきます。でも、もっと重要なことは、チームワーク、忍耐力、スポーツマンシップなどです。子供たちは、それらを間接的に学べるのです。それが、”頭のフェイント”です。」

 

もう大体何を言わんとしているか想像できるかと思います。つまり、僕が思っているのは、高校や大学の教育というのも、”頭のフェイント”から「学ぶこと」が重要だ、ということです。数学では「論理的に問題を整理して、順序立てて解決していく方法」、世界史では「栄枯盛衰の中で自己や組織が長く存続し続けるための意思決定の方法」あたりが、個人的には、学べることじゃないかなと思います。高校や大学で教えているその他のことにも、必ず”頭のフェイント”を通して「学べること」があるはずですし、それを「学ぶこと」こそ教育の目的なのだと思います。

 勉強が面白くないと感じるのは、この”頭のフェイント”の存在に気付かずに、勉強する内容に必要性を感じないからだと思います。意識的に、”頭のフェイント”を通して、今「学べることは何か?」を常に考えることで、勉強することは格段に面白くなるような気がします。企業研修とか、つまらないと思われる雑務とかも同じことで、そこから「何か学べることはないかな?」と考えることで、つまらないことが、どんどん面白いことに変わっていくような気がします。(というか、そうでもしないとつまらないことなんてやっていられない笑)

 ということで、今回は「学ぶこと」について、より具体的には”頭のフェイント”について書きました。僕もこのブログを読んでもらうことで、”頭のフェイント”で何かを学んでもらうはおこがましいですが、何かを感じとって貰えるような文章を書くことを心掛けていきたいです。

 ということで、次回は、自分が研究生活から”頭のフェイント”を通して学んだこと、についてでも書こうと思います。